5:小説の一大進歩
ぼくは『小説神髄』を読んでいる途中で、「小説」という単語の由来が気になって、魯迅の「中国小説の歴史的変遷」を読んでいるところです。
魯迅の話は、いよいよクライマックスに入ります。というのも、唐代にいたって、いよいよ、「小説」に一大進歩が訪れるからです!
魯迅は、このように語っています。
小説は、唐代(618-907)になって一大変遷をとげました。前回述べましたように、六朝時代の志怪と志人の文章は、いずれもごく短いもので、しかも事実の記録と見なされていました。唐代になると、それが意識的に小説をつくるようになったのです。このことは、小説の一大進歩ということができます。それだけでなく、文章も長くなり、曲折に富んだ描写もできるようになって、それまでの簡古な文体とはたいへん異なるものとなりました。文体の点から見ても一大進歩ということができます。
つまり、唐代の小説家は、これまでの「くだらない事実」としての「小説」を卒業して、「フィクション」としての「小説」を書くようになったのです!しかし、当時、これらの作品は「伝奇体」と呼ばれ、けなされていたようです。そして、
唐も開元(713-741)、天宝(742-755)以後になりますと、作者が輩出し、様子が一変します。それまでは小説を軽蔑していた者たちが、小説をつくりはじめるようになりました。これは当時の社会環境と関係があります。唐代では、科挙の試験のさいに、「行巻」というものがたいへん重視されました。受験生たちは都へやって来ますと、まず自分の会心の詩作を巻子[カンス]に写して、当時の有名人に拝謁に出かけます。もしそれが賞賛を受ければ、「声価十倍し」て、及第の望みが開けます。そのため、この行巻がきわめて重視された訳です。
なんだか「行巻」って、裏口入学みたいで、ちょっと怪しい行為ですね。事実、この行為、腐敗が入り込む余地が大きく、宋代(960-1276)になって改められることになったようです。その宋代になると、平民の「小説」が勃興します。魯迅は次のように語っています。
この種の作品は、体裁が異なるばかりでなく、文章の面でも改革が起こり、白話を用いるようになりました。したがってまことに小説史上の一大変遷であるわけです。といいますのは、当時一般の士大夫は理学を重んじ、小説を蔑視しましたが、一般の人民はやはり娯楽をもとめていたのです。平民の小説が起こったのは、何ら怪しむに足りないことであります。
「白話」とは、「口語文」のことです。日常使う話し言葉で文章を書くことですね。また、「小説」が平民に広まるに至った背景には、当時の中国の政情も関係しているようです。
宋は汴に都を建てましたが、民の生活は安定し、物資も豊富で、したがって娯楽も多く、市街地には伎芸というものが行われました。この伎芸の中にいわゆる「説話」が含まれています。「説話」は、次の四科に分かれます。
一、講史 二、説経諢経 三、小説 四、合生
「講史」は、歴史上の事件や有名な人物の伝記などを語るもので、これがのちの歴史小説の起源となりました。「説経諢経」は、仏教の経典を俗語でわかりやすく説くものです。「小説」は短い説話のことです。「合生」は、まず意味のあいまいな二句の詩を読み、ついでさらに数句を読んではじめて意味がわかるもので、おそらく当時の人々を諷刺したものでしょう。この四科のうち、のちの小説と関係があるのは「講史」と「小説」だけであります。
これらの説話をテキスト化したものを「話本」というそうです。この「話本」は、唐代の影響を受けながら、また、後世に影響も与えています。というのも、例えば、「講史」の構成は、詩で始まり、本文に入り、詩で結ばれます。これは、唐代において、詩に優れた人間が尊ばれたことから、「説話」を読む人たちがあやかろうとしたもののようです。また、後世の歴史小説は、結びに
不知後事如何 且聴下回分解
後事如何なるかを知らず、且[シバラ]く下回の分解を聴け
このあといかが相成りますか、まずは次回での説き明かしを聴かれよ
という一文を入れるようですが、これは、聴衆を次回の説話に引き止めておくための「説話」の文言を踏襲しているためのようです。この手の「次回をお楽しみに!」的文言は、いまでも使われてますよね。
不知後事如何 且聴下回分解
後事如何なるかを知らず、且[シバラ]く下回の分解を聴け
このあといかが相成りますか、まずは次回での説き明かしを聴かれよ
という一文を入れるようですが、これは、聴衆を次回の説話に引き止めておくための「説話」の文言を踏襲しているためのようです。この手の「次回をお楽しみに!」的文言は、いまでも使われてますよね。
ちなみに、唐代には、その前の隋代に関する歴史を記した『隋書』が、そして、宋代になると、唐代に関する歴史を記した『新唐書』が書かれます。『唐書』に「新」がつくのは、隋と唐の間の後晋(936-946)の時代にも『唐書』が書かれているからです。ですから後晋のほうは、『旧唐書』といわれます。
『隋書』にも、『漢書』の「芸文志」のように、蔵書目録が記された「経籍志」という項目があります。
『隋書』は、「本紀」5巻、「志」30巻、「列伝」50巻から成っています。そのうち、「経籍志」は、「志」の27巻目から30巻目に当たります。この4巻を経・史・子・集の4つに分類しています。これを「四庫分類」といいます。
・志二十七 経籍一 経
・易
・書
・詩
・禮
・楽
・春秋
・論語
・孝経
・小学
・志二十八 経籍二 史
・正史
・古史
・雑史
・覇史
・起居注
・舊事
・職官
・儀注
・刑法
・雑傳
・地理
・譜系
・略録
・志二十九 経籍三 子
・儒家
・道家
・法家
・名家
・墨家
・縦横家
・雑家
・農家
・小説家
・兵家
・天文
・歴數
・五行
・醫方
・志三十 経籍四 集
・楚辞
・別集
・総集
『旧唐書』も、似たような構成をしています。『旧唐書』は、「本紀」20巻、「列伝」150巻、「志」30巻から成っています。『旧唐書』の「経籍志」も「四庫分類」で成り立っており、「志」の26巻目と27巻目に当たります。
・甲部経録
・易
・書
・詩
・禮
・楽
・春秋
・孝経
・論語
・図緯
・経解
・詁訓
・小学
・乙部史録
・正史
・古史
・雑史
・覇史
・起居注
・舊事
・職官
・儀注
・刑法
・雑傳
・地理
・譜系
・略録
・丙部子録
・儒家
・道家
・法家
・名家
・墨家
・縦横家
・雑家
・農家
・小説家
・兵家
・天文
・歴數
・五行
・醫方
・丁部集録
・楚辞
・別集
・総集
また、『新唐書』になると「芸文志」という項目に戻りますが、内容にそれほどの変化はありません。「芸文志」は、「志」の47巻目から50巻目に当たります。
・志四十七 芸文一 甲部経録
・易
・書
・詩
・禮
・楽
・春秋
・孝経
・論語
・讖緯
・経解
・小学
・志四十八 芸文二 乙部史録
・正史
・編年
・偽史
・雑史
・起居注
・故事
・職官
・雑傳記
・儀注
・刑法
・目録
・譜牒
・地理
・志四十九 芸文三 丙部子録
・儒家
・道家
・法家
・名家
・墨家
・縦横家
・雑家
・農家
・小説家
・天文
・歴算
・兵家
・五行
・雑芸術
・類書
・明堂経脈
・醫術
・志五十 芸文四 丁部集録
・楚辞
・別集
・総集
さて、ここから一気に話を進めましょう。
魯迅の「中国小説の歴史的変遷」は元代(1271-1368)をすっ飛ばして、明代(1368-1644)に突入します。元代をすっ飛ばすのは、いうべきほどの変化がないからだそうです。そして、魯迅は明代の「小説」の特徴を2つ挙げます。
1.神と魔とのたたかいを述べたもの
2.世情を述べたもの
魯迅は、「神と魔とのたたかいを述べたもの」を「神魔小説」と名付け、次のように語っています。
この思潮が起こったのも、当時の宗教、方士の影響によるものです。宋の宣和年間(1119-1125)は、道教がたいへん信奉されました。元では仏教、道教ともに尊崇され、方士の勢力も小さくありませんでした。明になって、方士の勢力は本来衰えつつあったのですが、成化年間(1465-1487)にはいってまた頭をもたげてきました。・・・・・・歴代の儒・仏・道三教の争いは、みな無解決のまま、たいていたがいに調和しあい、妥協しあって、最後に「同源」の名によってうやむやとなってしまいます。新しい一派がはいってきますと、決まってたがいに外道と見なし、紛争が生じるのですが、いったん同源と認めますと、一視同仁となってしまいます。・・・・・・小説に描かれた正と邪も、決して儒と仏、あるいは道と仏、あるいは儒・道・仏と白蓮教といったものではなく、単に不明確なあれとこれとの争いにすぎません。
ぼくの頭が悪いせいか、魯迅の言っていることが、いまいちわかりません。とにかく、儒教や仏教や道教や白蓮教などがごちゃごちゃして、そしてまとまって、そんな状況から、わかりやすい対立構造の「小説」が生まれたようです。また、「世情を述べたもの」に関しては、次のように述べています。
この種の小説はおおむね男女の情事や淫蕩を述べ、悲歓離合の間に人情定めなき世間の姿を写しています。そのもっとも有名なのが『金瓶梅』です。・・・・・・明人の小説が人間の醜行を描こうとする場合、人物はつねに指すところがあり、文字を借りて宿怨をはらそうとしたものなのです。・・・・・・世情小説ははっきりと応報を説く書に一変し、勧善の書となるわけです。
明代には、『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』という「四大奇書」が刊行されます。中里見敬氏の「中国小説入門」には、『五雑俎』の著者・謝肇淛[シャチョウセツ](1567-1624)のこんな一文を紹介しています。
小説は稗官も記録しなかったものであり、うそっぱちででたらめばかりだけれども、そこに至高の真理が含まれてもいるのだ。小説と戯曲はすべて、事実と虚構が混ざりあって、はじめて遊戯三昧の文章となるのだ。また感興と描写をとことんまで追求すればよいのであって、それが事実かどうかは必ずしも問題にならない。・・・・・・もし事実かどうかを問題にするのであれば、史伝を見れば事足りるのであって、戯[遊戯=芝居]と名づける必要などないではないか。
孔子が「小道と雖も必ず観る可き者有り」と述べたとき、「小説」は、あくまでも「史伝」より下に位置していました。しかし謝肇淛の一文には、小説の価値は、史伝との比較で計られるものではなく、小説には小説としての、別の価値があるのだという意味を読み取ることができます。
そして、魯迅の「中国小説の歴史的変遷」は、清代(1616-1912)へと移りますが、ここでは「小説」の種類を大きく4つに分けて説明し、2週間にわたる講義を終了しています。
1.擬古派
2.風刺派
3.人情派
4.狭義派
ぼくは、「小説」という単語の由来が知りたいだけなので、この4つの説明は省かせていただきます。
ちょっと長くなりましたが、これにて、魯迅の「中国小説の歴史的変遷」は、終わりにしたいと思います。
ふぅ〜ようやく終わったか・・・
いやいや、なにも終わってないんですけどね・・・
ここから、いよいよ、坪内逍遥の『小説神髄』に戻るわけですが、その前に、もう一度だけ、今までの話をちょっと振り返ってみたいと思います。というのも、ぼくは、魯迅の「中国小説の歴史的変遷」を読んでいる端々で、「ここからちょっとややこしくなる」と言っておきながら、「なにがややこしいのか」を後回しにしていたからです。
いったい、なにが「ややこしい」のか。
それは、魯迅が講義の中で使っている「小説」という言葉は、全部同じ「小説」なのかという問題です。
???となるかもしれませんが、詳しい話は・・・
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