4:だんだん怪しい話へ

 ぼくは『小説神髄』を読んでいる途中で、「小説」という単語の由来が気になって、魯迅の「中国小説の歴史的変遷」を読んでいるところです。

 前回につづいて、今回もGoogle Scholarを使って参考となる論文を探してみました。以下に、追加した論文を記しておきます。


中里見敬 「中国小説入門」 中国書店 2002
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/15431/tbk_p064.pdf 
西岡晴彦 「中国小説史上の虚構の成立とその変容」 信州大学人文科学論集 1993
https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=982&file_id=65&file_no=1 

 では・・・さっそく・・・

 魯迅は、まず、「小説」という単語が初めて登場する『荘子』の

小説を飾りて以て縣令を干む

 という一文を取り上げています。この一文が載っている説話は、いわゆる寓話のかたちで教えを説いています。ちなみに、『荘子』の雑篇寓言篇には、次のような一文があります。

寓言十九、重言十七、巵言日出、和以天倪、寓言十九、藉外論之、親父不爲其子媒、親父譽之、不若非其父者也、非吾罪也、人之罪也、與己同則應、不與己同則反、同於己爲是之、異於己爲非之、重言十七、所以已言也、是爲耆艾、年先矣、而无經緯本末以期年耆者、是非先也、人而无以先人、无人道也、人而无人道、是之謂陳人

寓言[グウゲン]は十の九、重言[ジュウゲン]は十の七、巵言[シゲン]は日々に出だし、和するに天倪[テンゲイ]を以てす。寓言十の九は、外に藉[]りてこれを論ず。親父[シンプ]は其の子の為に媒[バイ]せず。親父のこれを誉[]むるは、其の父に非ざる者に若[]かざるなり。吾が罪に非ざるなり、人の罪なり。己れと同じければ則ち応じ、己れと同じからざれば則ち反く。己れに同じければ為[スナワ]ちこれを是[ゼ]とし、己れに異なれば為ちこれを非とす。重言十の七は、言を已[]むる所以[ユエン]なり。是れを耆艾[キガイ]と為[]す。年先んずるも、経緯本末の以て年の耆[]なるに期[]うなき者は、是れ先んずるに非ざるなり。人にして以て人に先んずるなきは、人道なきなり。人にして人道なき、是れをこれ陳人[チンジン]と謂[]う。

寓言(すなわち他事にことよせて説いたことば)は九割を占め、重言(すなわち古老の発言に託して重みをつけたことば)は七割を占め、巵言(すなわちとらわれのない自由自在のことば)は日ごとに口をついて出て、天倪(すなわち自然の平衡)によってすべての対立を調和させた。(これが荘子の文章の表現方法である)全体の九割を占める寓言とは、他の事を借りてきて論ずるものである。血縁の父がその子のために媒酌をしないのは、血縁の父が誉めるよりも、父でない他人が誉めた方がよいからである。(直接に話さないで他の話にことよせるのは、そのためだ)これはこちらが悪いのではなくて、世間の人々が悪いのだ。人々は自分と同じ意見には同調するが、自分と違った意見にはそっぽをむき、自分に同調するものはそれを正しいとするが、自分に異をたてるものはそれを誤りだとするからだ。全体の七割を占める重言とは、論争をやめさせるためのものである。それは古老のことばを利用するのだ。だが、年齢のうえでは人生の先達であっても、その年齢の古さにふさわしく、筋みちだって本末のそなわった話があるのでなければ、これは先達だといえない。人として(年齢をとりながら)人生の先達がつとまらないものは、人としての道がそなわっていないものである。人でありながら人の道がそなわっていないものは、それを陳人(古くさいだけの人間)という。(重言でたいせつなのは、先達者としての古老のことばなのだ)

 『荘子』では、ほかの出来事や先人の言葉を借りてきて、コトの本質の重要さを説いていきます、と荘子自らが解説しています。これは、頭の悪いボクにも、非常にわかりやすい説得方法です歳をとりながら先達がつとまらないのは、ただ古臭いだけの人間なのだ!とは、なかなか厳しいご批判ですね・・・でも、荘子先生の言う通り!あまり大きな声では言えませんが、いまの日本は、陳人だらけかもしれませんね・・・

 さきの「小説を飾りて以て縣令を干む」の一文が載った説話も、任の公子の釣りの話を例え話にして、小さなことをしていては、大きなことを成し遂げることはできない!という教えを説いています。

 さて、魯迅の「中国小説の歴史的変遷」に戻って、続きを読んでみると、こんなことが書かれています。

『漢書』「芸文志」[ゲイモンシ]になると次のような言い方が出てきます。

小説は、街談巷語の説なり (小説というものは、通りや横丁でとりかわされる話である)

ようやく今日の小説というものに近くなりますが、それでも昔の稗官[ハイカン]が一般の庶民の語る簡単な話を採集して、国の民情や風俗を観察しようとしたものにすぎず、今日いう小説の価値があったわけではありません。 小説の起源はどうでしょうか。『漢書』「芸文志」は次のようにいっています。

小説家者[ショウセツカシャ]の流[リュウ]は、蓋[ケダ]し稗官に出づ (小説家というものの流れは、稗官から出たものであろう) 

稗官が小説を採集したという事実があったかどうか、一つの問題ではありますが、たといあったとしても、それは小説書の起源にすぎず、小説そのものの起源ではありません。

 『漢書』は、前漢[206-8]のことを記した全100巻の歴史書です。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻から成り、「芸文志」は「志」の10巻目、当時の朝廷の蔵書目録を記しています。

・志
 ・律暦志
 ・礼楽志
 ・刑法志
 ・食貨志
 ・郊祀志
 ・天文志
 ・五行志
 ・地理志
 ・溝洫志
 ・芸文志

 さらに「芸文志」は、6つの「略」から成っています。

・略
 ・六芸略
 ・諸子略
 ・詩賦略
 ・兵書略
 ・術数略
 ・方技略

 そして、さらに、「諸子略」は、以前紹介した「諸子十家」、つまり10の家流から成っています。

・諸子略
 ・儒家
 ・道家
 ・陰陽家
 ・法家
 ・名家
 ・墨家
 ・縦横家
 ・雑家
 ・農家
 ・小説家

 この「諸子略」の「はじめに」の部分にあたる「総序」の第一文に、

諸子十家、其可観者九家而已 

諸子十家、その観るべきもの、ただ九家のみ

 という、以前紹介した一文が出てきます。魯迅が紹介した文章は、「諸子略」の「小説」の部分に載っています。

小説家者流、蓋出於稗官、街談巷語、道聴塗説者之所造也、孔子曰、雖小道、必有可観者焉、致遠恐泥、是以君子弗為也

小説家者[ショウセツカシャ]の流[リュウ]は、蓋[ケダ]し稗官[ハイカン]に出づ。街談巷語[ガイダンコウゴ]、道聴塗説者[ドウチョウトセツシャ]の造る所なり。孔子曰[イワ]く「小道と雖[イエド]も必ず観るべき者有り、遠きを致さんとすれば、泥[ナズ]まんことを恐る。是[ココ]を以て君子は為[]さざるなり」と。

小説家の流れは、稗官から出たものであろう。通りや横丁で話をとりかわし、道で聞いたことをそのまま道で話すような者たちのつくったものである。孔子はこういっている。「小さい道といえども、きっと見どころはあるものだ。だが志高く遠方をめざす者は、そこにとらわれてしまうことを恐れる。それゆえ君子は小道に手を出さないのだ」と。

 『漢書』芸文志諸子略小説には15の書物が記録されています。
・伊尹[イイン]
・鬻子[イクシ]
・周考
・青史子
・師曠
・務成子
・宋子
・天乙
・黄帝説
・封禅[ホウゼン]方説
・待詔臣饒心術[タイショウシンジョウシンジュツ]
・待詔臣安成未央術[タイショウシンアンセイビオウジュツ]
・臣寿周紀
・虞初[グショ]周説
・百家

 魯迅は、このあと、うえの書物のなかの『青史子』の一文を取り上げ、

これがどうして小説なのかわかりません

 と言っています。

古者[ムカシ]年八歳にして出でて外舎に就き、小芸を学び、小節を履[]む。束髪にして大学に就き、大芸を学び、大節を履む。居れば礼文を学び、行けば佩玉[ハイギョク]を鳴らし、車に昇れば和鸞[ワラン]の声を聞く。是[ココ]を以て非僻[ヒヘキ]の心自[]りて入るなきなり。

古代は八歳になると家より出て外舎(小学)に入り、初級の技芸(礼・楽・射・御・書・数の六芸)を学習し、初級の礼儀を学習する。成年に達すると大学に入り、高級の技芸を学習し、高級の礼儀を実習する。家にあっては礼節と儀礼を学習し、外出にあたっては身につけた佩玉[オビダマ]が鳴り、車に乗る時は調和のとれた美しい鈴の音が聞こえる。こうして間違った心は入りようがなくなるのである。

 たしかに、この文章の何が小説なのか、さっぱりわかりませんね。魯迅は、このあと、六朝時代(222-589)の志怪・志人の書物を取り上げます。魯迅は、次のように語っています。

中国ではもともと鬼神を信じてきました。ところが、鬼神と人間とは隔てられています。この人間と鬼神との交通をもとめるところから、巫[]が出現しました。巫はのちに二派に分かれます。一派は方士、他の一派はやはり巫です。巫は多く鬼について語り、方士は多く錬金術と仙人になる方法を語りました。秦・漢以来、その風潮はしだいに盛んになり、六朝時代になってもやみませんでした。そのため志怪の書が特に多いのです。

 巫とは、シャーマンのことです。そして、「志」は「誌」と同じで、「記録する」という意味です。つまり、「志怪」とは、怪しいものや出来事を記録するということですね。魯迅は、志怪の例として、劉敬叔(390-470)の『異苑』を取り上げます。

義熙[ギキ]中に、東海の徐氏の婢蘭忽ち羸黄[ルイオウ]を患い、而して拂拭すること非常なり。共に伺いて之を察[]るに、掃帚の壁角より来りて婢の床に趨[ハシ]るを見る。乃ち取りて之を焚[]く。乃ち平復す。

東晋の義熙年間(405-418)に、東海郡の徐氏の下女の蘭が突然疲れ病にかかったが、異常なほど熱心に清掃をするようになった。女の部屋をひそかにうかがっていると、箒が壁のすみから女のベッドに向かって走っていくのが見えた。そこでこの箒を焼きすてたところ、女の病気はもとどおりになおった。

 魯迅はこのように言っています。

これによって、六朝時代の人々がすべての物は妖怪になりうると考えていたことがわかります。これが「アニミズム」といわれるものです。このような思想は、現在でも依然としてのこっています。たとえば木の上に「有求必応」(願いごとがあればかならずかなえられる)と書いた横額がかかっているのをよく見かけますが、これは社会でまだ樹木を神とみなして、今も六朝人同様の迷信にとらわれていることを証明するものです。実際にはこのような思想は、もともと昔はどこの国でもあったもので、それがのちにだんだんすたれていったにすぎません。ところが中国では今もって盛んであるのです。・・・・・・このほかに六朝人の志怪思想の発達を助長したものが、インド思想の輸入です。晋、宋、斉、梁の四朝は、仏教が大いに流行し、多くの仏典が翻訳されましたが、それらに混じって鬼神、怪異の話も同時に紹介されましたので、この時代に中国、インド両国の鬼神、怪異が小説の中に合流して、いっそう発達することになりました。・・・・・・ただし六朝人の志怪は、おおむね今日の新聞記事のごときもので、当時の人々に小説をつくろうという意図があったわけではありません。このことは知っておいていただきたいと思います。

 日本でも「付喪神(ツクモガミ)」といって、器物が妖怪になる話が多く残っています。室町時代の『付喪神絵巻』(16世紀)には、

器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すと云えり

 このあと、魯迅の話は唐代(618-907)に移りますが、ここで小説史上の一大進歩が訪れます!次回はそこから始めたいと思います。

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