3:寄り道の魯迅

 ぼくは、いま、『小説神髄』を読んでいる途中で、「小説」という単語の由来が気になって、ちょっと寄り道をしている最中です。

 ぼくは、このブログを1週間に2回くらい更新できればいいなと思っていたのですが、今回の3回目の更新で、さっそく滞ってしまいました...。

 ぼくは、「諸子百家」に「小説」の由来があることを知り、前回、そのことについて記して、その時点で、徐々にわかってきたぞ!と思ったのですが、その考えが甘いことが今回わかったのです..............しゅん...

 ぼくは、「小説」・「歴史」・「由来」などの検索ワードを使ってネットの中をウロウロしていたわけですが、そんな時、ある人物の名前が、目に飛び込んできました。その人物の名は、中国の小説家・魯迅(1881-1936)です。

 魯迅は、言わずと知れた、中国を代表する小説家ですが、彼は、1920年、北京大学の招聘を受けて、「中国小説史」の授業を開講しています。もともとは、彼の弟の周作人(1885-1967)が依頼を受けたらしいのですが、準備不足のため、兄の魯迅に代わったそうです。その講義録を整理して執筆したのが、『中国小説史略』です。これこそが、中国小説の発展過程を系統的に論述した中国文学研究史上初の専著!なのだそうです。

 これは何か匂うぞ!と思ったぼくは、さっそく、『中国小説史略』を購入しようと思ったのですが、本屋のどこにも売っていません。以前は、ちくま学芸文庫も岩波文庫も東洋文庫も出版していたそうなのですが、すべて絶版になっているそうです。そこで、困ったぼくは、Googleが提供する検索サイトのひとつであるGoogle Scholarを使ってみました。Google Scholarは、世界中の学術論文を検索できるサイトです。ぼくは、このサイトを頻繁に活用していますが、利用するたびに、いまの学生がうらやましいなぁ〜と思ってしまいます。

 さっそく、「魯迅」で検索してみると、「訳注 魯迅『中国小説の歴史的変遷』」という論文を見つけました。「中国小説の歴史的変遷」は、魯迅が、1924年に、西北大学と陜西省教育庁が共催した夏期学校にて、「中国小説的歴史的変遷」というタイトルで2週間に渡って講義した内容を改訂したものです。『中国小説史略』のダイジェスト版という感じです。ぼくは、中国小説の歴史というよりも、「小説」という単語の由来が知りたかったので、今回は、この「中国小説の歴史的変遷」に絞って読んでみることにしました。さらに、Google Scholarで見つけた以下の論文も参考にすることにしました。

丸尾常喜 「訳注 魯迅『中国小説の歴史的変遷』」 北海道大学文学部紀要 1987
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33509/1/35(1)_PR59-152.pdf
廣瀬玲子 「反復される語り-古代中国における『説』と『小説』」 専修大学専修人文論集 2005
http://ir.acc.senshu-u.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1030&item_no=1&attribute_id=15&file_no=1
廣瀬玲子 「小説と歴史-魯迅『中国小説史略』試論」 東京大学東洋文化研究所紀要 1997
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000284907/
大橋義武 「魯迅『中国小説史略』再考」 埼玉大学紀要 2015
http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?id=KY-AA12017560-5002-03
植松公彦 「魯迅『中国小説史略』素描」 慶應義塾大学藝文学会 2007
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?koara_id=AN00072643-00930001-0048

 さっそく、ドキドキしながら開いてみると、冒頭はこんなふうに始まりました。

私がお話ししますのは、中国の小説の歴史的変遷についてであります。多くの歴史家が、人類の歴史は進化してきたといいます。そうとすれば、中国もむろん例外ではありえません。ただ、中国の進化のありさまを見てみますと、二つのきわだった現象が見られます。一つは、新しいものが現われてながくたちますと、旧いものがまたもどってくる、つまり反復です。もう一つは、新しいものが現われてながくたつのに、旧いものがいっこうにすたれない、つまり混在です。しかし、それでは進化しないのかといいますと、そうではありません。ただ比較的緩慢なために、私たちせっかちな人間から見て、たいへんまどろっこしい感じがするだけであります。文芸、文芸の一種である小説も、当然事情は同じです。たとえば、今日でも、多くの作品の中に、唐代や宋代の人間、はなはだしくは原始時代の人間の思想方法の糟粕がのこっています。今日の話では、ともかく逆光したり、混雑したりしている作品の中から一すじの前進する脈絡を見いだしたいと思うのです。

 大橋義武氏の「魯迅『中国小説史略』再考」には、次のようなエピソードが載っています。魯迅研究で名高い作家の許欽文(1897-1984)が、魯迅と個人的に喫茶談話した際に、こんな会話をしたといいます。

許欽文:先生のお話は、中国の小説史に限らないばかりか、重点はやはり封建思想に反対し創作上の方法を紹介することにあるようですが、いかがですか?

魯迅:その通りだよ!もし『中国小説史』のためだけに中国の小説史を講ずるのだったら、たとえ語りが熟達して、みんなもよく暗誦できるようになったとしても、何の役にも立つものじゃないさ!いま必要なのは、実行であって、言辞じゃない。現在の問題は、みんなにわからせることだ。孔孟の道だ、封建礼教だなんていうのはそっくり取り除いてしまわなければならないということを。

 魯迅は、古いものに固執せず、とにかく一歩でもいいから前進しようよ!という思想の持ち主です。その結果、当時の国民党独裁体制を激しく批判し、何度も、命を狙われた作家でもあります。それが講義の冒頭の挨拶にも滲み出ています。

 そして講義は、いよいよ、中国小説の歴史に入ります。

小説という名称について考えてみますと、もっとも古い例は、『荘子』の

小説を飾りて以て縣令を干[モト]

という一句に見えます。「縣」というのは「高」、つまり「高名」のこと、「令」というのは「美」、つまり「美名」のことです。ただ、これは彼のいわゆる瑣細な言、つまり道術にかかわりのない言葉を指していっているのであって、のちにいう小説と同じではありません。というのは、孔子・楊子、墨子のような諸家の学説は、荘子から見れば、すべて小説といいうるからです。

 ぼくは、岩波文庫の『荘子』を購入して、さっそく、その一句が載ったところを探してみました。『荘子』は、内篇・外篇・雑篇の3つに分かれていて、さらに、内篇が7篇、外篇が15篇、雑篇が11篇に分かれています。

・内篇
 ・逍遥遊篇
 ・斉物論篇
 ・養生主篇
 ・人間世篇
 ・徳充符篇
 ・大宗師篇
 ・應帝王篇
・外篇
 ・駢拇篇
 ・馬蹄篇
 ・胠篋篇
 ・在宥篇
 ・天地篇
 ・天道篇
 ・天運篇
 ・刻意篇
 ・繕性篇
 ・秋水篇
 ・至楽篇
 ・達生篇
 ・山木篇
 ・田子方篇
 ・知北遊篇
・雑篇
 ・庚桑楚篇
 ・徐无鬼篇
 ・則陽篇
 ・外物篇
 ・寓言篇
 ・譲王篇
 ・盗跖篇
 ・説剣篇
 ・漁父篇
 ・列禦寇篇
 ・天下篇

 ここで、ぼくは気が付いてしまいましたよ!『荘子』の目次に、「逍遥」のふた文字があることを!ちなみに、「逍遥」とは「気ままにぶらぶら歩く」という意味です。坪内逍遥は、おそらく『荘子』の「逍遥遊」から採ったのでしょう。こうして、点と点が線になる瞬間に出会うのですから、寄り道も悪くないもんですね!

 では、あらためて、さきの一句のところに戻りましょう。さきの一句は、雑篇外物篇のなかの6つの説話のうちのひとつにありました。

任公子爲大鉤巨錙、五十犍以爲餌、蹲乎會稽、投竿東海、旦旦而釣、期年不得魚、已而大魚食之、牽巨釣、陥沒而下、馳揚而奮鰭、白波若山、海水震蕩、聲侔鬼神、憚赫千里、任公子得若魚、離而腊之、自制河以東、蒼梧已北、莫不厭若魚者、已而後世銓才諷説之徒、皆驚而相告也、夫掲竿累、趨灌瀆、守鯢鮒、其於得大魚、難矣、飾小説以干縣令、其於大達、亦遠矣、是以未嘗聞任氏之風俗、其不可與經於世、亦遠矣 

任の公子、大鉤[タイコウ]・巨錙[キョシ]を為[ツク]り、五十犍[カイ]を以て餌[ジ]と為[]し、会稽[カイケイ]に蹲[ウズクマ]り、竿[サオ]を東海に投じ、旦旦[タンタン]にして釣る。期年にして魚を得ず。已[スデ]にして大魚これを食[クラ]い、巨鉤を牽[]き、陥没して下[モグ]り、馳せ揚がりて鰭[ヒレ]を奮[フル]う。白波は山の若[ゴト]く、海水震蕩[シントウ]して、声は鬼神[キジン]に侔[ヒト]しく、千里を憚赫[タンカク]す。任の公子、若[]の魚を得、離[]きてこれを腊[ホジシ]にす。浙河[セッカ]より以東、蒼梧[ソウゴ][]北、若[]の魚に厭[]かざる者莫[]し。已[スデ]にして後世の銓才諷説[センサイフウセツ]の徒、皆驚きて相告ぐるなり。夫[ソ]れ竿累[カンルイ]を掲げ、灌瀆[カントク]に趨[オモム]き、鯢鮒[ゲイフ]を守るは、其の大魚を得るに於いて、難[カタ]し。小説を飾りて以て県令に干[モト]むるは、其の大達に於いて、亦[]た遠し。是[ココ]を以て未[イマ]だ嘗[カツ]て任氏の風俗を聞かざれば、其の与[トモ]に世を経[ケイ]すべからざるや、亦た遠し。

(山東省)の国の公子が、大きな釣針と太い黒綱の釣糸とを作った上、五十頭もの去勢した牛を餌にして、会稽の地(浙江省)にうずくまり、竿を東海にむけてつき出して、朝な朝なに魚釣りをつづけたが、一年たっても魚は得られなかった。ところが、やがてあるとき大魚が食いつき、巨大な釣針をひっぱって水中深くもぐりこんだかと思うと、忽ちまた勢いよく海面におどり出て、その鰭を烈しくばたつかせた。白い波だちは山のようなうねりを見せ、海水は震動してひっくりかえり、大魚のうなり声は鬼神かと思うほどで、千里のかなたまで人々をふるえあがらせた。任国の公子はこの大魚を釣りあげると、それを小さく切りわけて乾肉にしたが、なんと浙江の流れから東、蒼梧の山から北の地方では、すべての人々がこの大魚の肉を食べて満腹したのだ。やがて、後世の小賢しい才能で無責任な噂好きの手合が、みなびっくりしてこの話を伝えるようになった。いったい釣竿と釣糸を持ち出して、小さい水たまりや溝川に出かけて小魚や鮒のたぐいを目当てにしている連中では、大きな魚を釣りあげることはとてもむつかしい。(それと同じことで)つまらない弁説を飾りたてて、県の長官にとりいって職を得ようとしているような手合は、それをすぐれた達人と比べるとやはり大きな隔たりだ。だから、任国の公子の(ばかでかい)風格をまだ聞いたこともないというような手合は、いっしょに世を治めることなどとてもできず、やはり大きな隔たりだ。
 これが「小説」という単語が初めて登場する説話です!

 漢文、書き下し文、翻訳文と並べてみたのですが、文章がどんどんダラダラ長くなっていくのが面白いですね。そして、漢文を横書きにすると、どうもカタチとして落ち着かないのも面白いですね

 『荘子』は、荘子(369-286)の思想をまとめた本です。そして、荘子は、諸子百家のなかの道家の始祖です。魯迅のいう「諸家の学説は、荘子から見れば、すべて小説といいうる」というのは、「荘子が生み出した道家の思想からすれば、諸子百家の他の学説は、すべて、つまらない弁説にすぎない」ということです。

 魯迅は、このあと、『漢書』に記された「小説」という単語について述べているのですが、ここから話がちょっとややこしくなってきます。ということで、次回はそこから始めたいと思います。

コメント