2:小説家を探して・・・

 ぼくは、いま、坪内逍遥の『小説神髄』を読んでいます。そして、読んでいる途中で、そもそも「小説」という単語は、いつからあるのだろうという疑問が湧いてきました。

 もしかしたら、『小説神髄』のつづきを読めば、坪内逍遥が、「小説」という単語の起源に関する説明をしているかもしれませんが、ぼくは、昔の本を読んでいるのだから、これに関する予習をしておいてもいいかもしれないなと思いました。

 そこで、「小説」という単語について調べてみることにしました。
 前回に続いて、まずは、Wikipediaで「小説」を検索してみました。すると、こんな説明が載っていました。

小説という言葉は、君主が国家や政治に対する志を書いた大説や、君主の命などを受けて編纂された国史に分類される伝統的な物語や説話に対して、個人が持つ哲学的概念や人生観などの主張を、一般大衆に、より具体的に分かりやすく表現して示す、小編の言説という意味を持たされて、坪内逍遥らによって作られて定着していったものとも言われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AA%AC


 Wikipediaには、このあと、「ヨーロッパの小説」「中国の小説」「日本の小説」に関する説明が載っています。「日本の小説」の箇所には、次のような説明が載っています。

日本では、江戸時代に仮名草子、読本などはあったが、近代小説が誕生したのは明治時代以降である。Novelの訳語に「小説」という、江戸時代に曲亭馬琴たちを中心にして自作を表現するために使われていた中国由来の言葉をあて、従来の勧善懲悪を斥け、人情を映す文学作品として定義したのは坪内逍遥の『小説神髄』(1885-1886)である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AA%AC


 ぼくは、念のため、「小説」を説明している別のサイトを探してみることにしました。すると、「語源由来辞典」というのがありましたので、そこで、「小説」について調べてみると、こんな説明が載っていました。

英語「novel」の訳語に「小説」を当てたのは、坪内逍遥が『小説神髄』に用いたことからと言われるが、それ以前から訳語として用いられており、中国でも坪内逍遥が使う以前から「novel」の訳語に用いられている。ただし、逍遥以前に訳語として「小説」が用いられたのは、「novel」だけでなく「story」や「fiction」「romance」など関連する複数の語であった。坪内逍遥が「novel」に当てたといわれるようになったのは、これら複数の語に当てられていた「小説」を「novel」に限定し、他の文学形態と明確に区別させたことからである。
http://gogen-allguide.com/si/syousetsu.html 

 坪内逍遥が定義したことは、小説」とはnovelのことだけということみたいです。そして、「小説」という単語の由来は、やはり、中国にあるようです。そこで、Wikipediaに戻って、「中国の小説」の箇所にいくと、こんな説明が載っていました。

中国の前近代においては、「小説」という用語が使われ始めたのは、目録上でのことだった。(『漢書』「芸文志」)。しかも、それは、文学・芸術的な用語として生まれたのではなかった。「芸文志」には「街談・巷語、道徳・途説する者が造る所なり」「諸子十家、その観るべきもの、ただ九家のみ」という記述があり、街巷で語られたつまらない話が小説であるとされ、九流の諸子とは異なり、一ランク下のものと考えられていたことが分かる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AA%AC 

 なんだか、だんだんメンドくさい話になってきましたよ・・・ここで言う「諸子十家」とは、ぼくたちが学校の勉強で習った「諸子百家」のことっすね。そこで、今度は、Wikipediaで「諸子百家」について検索してみると、こんな説明が載っていました。

春秋時代に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国(戦国七雄)がせめぎ合う時代となっていった。諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。諸侯はそれらの人士を食客としてもてなし、その意見を取り入れた。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%AD%90%E7%99%BE%E5%AE%B6

 ずっとずっと大昔、紀元前260年頃の中国は、7つの大国が覇権争いをしている、いわゆる群雄割拠の戦国時代でした。この7つの大国を「戦国の七雄」といいます。これらの大国は、他国よりも抜きん出て、陣取り合戦に勝利するために、ありとあらゆる知識を集結させようとしました。その知識集団を「諸子百家」と言います。「世界史」の授業で勉強させられたやつっすね。
 戦争って何なんでしょうね・・・。多くの犠牲を生み出し、悲しむ人が増えるのに、ずっと絶えることがない。でも、その一方、戦争は、勝つための方法を貪欲に取り入れようとするため、ありとあらゆる知識を要求します。その結果、多くの天才が輩出されることも事実なんですよね

 「諸子百家」の「諸子」とは、その道に精通した学者を指し、「百家」とは、それらの学者が築き上げた学派のことです。

 「諸子」の代表者には、孔子・老子・荘子・墨子・孟子・旬子などがいます。そして、「百家」は、長年の時を経て、最終的には11学派に分類されます。
 前漢(202-8)の司馬談(-110)が、まずは6学派に分類します。
  • 陰陽家陰陽説と五行説を集大成し、天文・暦学に通じ、天体の運行によって起きる現象と人間生活の関係を結びつけて説いた
  • 儒家武力による覇道を批判し、徳による王道で天下を治め、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を説いた
  • 墨家実用主義で、秩序の安定や労働・節約を通じて、人民の救済と国家経済の強化を説いた
  • 法家中央集権的な統治体制を整え、信賞必罰の徹底と、厳格な法という基準と、術という臣下の管理術を用いた国家運営を説いた
  • 名家自己が獲得した知覚を精密に弁別し、認識の混同を避け、名と実との一致を厳しく求めた論理学を説いた
  • 道家人為性を排し、宇宙の根源的存在としての「道」に則った無為自然の清浄な行いを説いた
 その後、後漢(25-220)の班固(32-92)が、3学派を追加します。
  • 縦横家巧みな弁舌によって各国が喜ぶような政治手法を説いて回り、あわよくば、自らが高い地位に昇ろうとした者たち
  • 雑家独自の学説を持たず、諸家の学説を統合・取捨・参酌し、大局観的思想を築いた者たち
  • 農家耕作や炊事を万端に行うべきであり、勤労による天下平等を主張し、これによって、物価は一定となり、偽りをする者がいなくなると主張した者たち
 さらに、その後、1学派が追加されます
  • 小説家小さな巷説を拾い集め、故事などを語り伝え、書物にして残した者たち
 なんと!ここで「小説家」が登場します!「小説家」とは、「諸子百家のひとつの学派の名称」だったんですね!ここまでの10学派で「諸子十家」です。そして、最後に、
  • 兵家戦略・戦闘方法・兵器の使用・軍事上の禁忌、また、そこから展開される政治・経済・人生を研究した者たち
が加わって、「諸子百家」と呼ばれます。十からいきなり百に変わるのは、「百戦錬磨・百花繚乱・百鬼夜行」などのように、指折り数えられる数を超えたので「たくさん」という意味に変わったということです。つまり、「諸子百家」を意訳するなら、「いろいろ沢山」っていう感じですかね。

 ぼくは、なんとなくわかってきましたよ!まず、ずっと昔の「小説」という単語は、現在使われている虚構の物語という意味ではなく、巷の世間話やうわさ話という意味であったこと。そして、ずっと昔の「小説家」は、現在使われている虚構の物語の創作者という意味ではなく、巷の世間話やうわさ話を蒐集する人であったということです。
こんな感じ?↓
 そして、昔の小説家が十家の中で、ワンランク下に置かれているのも、他の学派と比べてみると、なんとなくわかりますね。他の学派、特に、司馬談が分類した6学派は、宇宙・国家・人民の思想と理論を確立させています。しかし、班固が追加した3学派は、ちょっと違います。縦横家は、詐欺的で利己的だし、雑家は、ただ整理しているだけだし、農家は、農作物を作っているだけです。ただ、これらも、策略・整理・食という、生活・経済に根ざしていることは間違いありません。でも、そのあとに追加された小説家は、巷の世間話を集めているだけです。群雄割拠の世の中で、それが必要なのかといわれると、う〜んとなってしまいます。「諸子十家、その観るべきもの、ただ九家のみ」と書かれても致し方ありません。
ぼくのなかのイメージ↓

 ぼくは、どうやら、この肩身の狭い「小説家」に関する予習は、もう少しやっておいてもいいかもしれないなと思いました。そこで、小説家が調べた小説の歴史を読んでみることにしました。

 それは、中国の小説家・魯迅が書いた『中国小説史略』です。

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